高山先生がなくなって9年がたちました。
なんとなく、ブログはまだあるのかどうか見に行ったらまだあった!
あれ立ち上げたの私なんです。
ネアンダルタール人とご自身のことをいう(PC関係について)林太郎先生、どうしても自分の言葉で発信したい欲あり、じゃあ、私は入れ物をつくるから中身をつくってください
ということで当時原稿をファックスでやりとりしていた。(まだ紙あると思う)
ふぁっくす!
高山先生のちっこい字。私も他にやることがあるのに、立て続けに何十枚ものファックスがうちにきて、「届いているか?読んでいるか?いつブログにアップされるのか?」
きかれる。
ちょっとめんどくせーと思ったけど、乗りかけた船だったので対応した。
すると、私を編集者か何かと思ったのか、やれ、フランス語のアクサンの向きがどうだのドイツ語のウムラウトがどうだの5分おきに電話が来る。これはたまらない。
私も切れる。すぐにできない!!! と。
(あのときはまだ子供がうんとちいさくて手がかかった)
そんなことを懐かしく思いながら・・・
この校長先生の話は高山先生の十八番で、飲み会のときなんども話していた。
私はこの話をする高山先生の様子が好きでなんども同じ話をしてもらった。
そしてブログにものせたいとリクエストし、掲載した。
これ。
戦争のとき誰もがおなかをすかせていた時代の話。
リンゴを盗んでしまった、みんなに尊敬される校長先生の苦悩をほんとうに
目の前に校長先生がいるかのごとく話をしてくれた。
ふっとりんごを切ったときの香りを感じるようなお話です
(飲み会のときのネタはいっぱいある。)
後半は精油の安全性ガイドかアロマテラピー大全のようになっちゃってるけど最初のほう、私がファックスを入力していたときは、R語録っぽくなってるんじゃないかなと思う。
これまたリンデンバウムの風を感じる詩。
先生は日比谷高校から外語大に進んだインテリ。
文章からちょっとそのインテリチックな感じがにじみ出ている。
寂しがりやで面倒くさい人だった。ポーランドにいたとき、週1くらいで「文通」していた。(手紙残ってると思う)これまた内容がとてもインテリ。インテリなんだけど、あほなこともいっぱい書いてあった。
私が訃報をうけとったのは、高山先生とちょっと距離をとっていたときで(私が子供のことでいっぱいいっぱいだったし、高山先生は自分のことでいっぱいいっぱいだったし、いっぱいどうしはうまくいかない。電話が多すぎるし長すぎるし、遠慮していた)連絡をもらったときは、実は入院されていたこともしらなかった。(その数年前に手をガラスできってどうのこうのという入院のときは、あれもってきて、これもってきて、っていわれてあわてていったんだけど、東京の真ん中にこんな不便な場所にある病院があるのかしら?と思うくらい遠くて大変だった・・・)
そのときIさんは(共通の知人)なんかしらんけど身元引受人になった! ってぼやいていたけど本当に高山先生、イケイケどんどんのときは面白かったな。
利用しようとしたり、されたりして(きっと利用されることのほうがおおい感じだった)よく嘆いていたけど(顧問になってほしいと「白金マダムにいわれた」といわれてそそくさとでかけていったけど、けっきょくけち臭いこといわれておじゃんになった話とか、アメリカの某ネットワーク系精油会社の立ち上げた人が書いた本を翻訳して、ほぼできあがったところで「やっぱりいいや」と断られたとか、ご自身の本ができあがり製本され、amazonにもでたのに、数日で全部回収になったこと、いろいろうまく立ち回れない人だった。そんな先生、私が会社を立ち上げたら月1で聖蹟桜ヶ丘にきて飲み会していたし(もっと頻度高かったかも)あのときは京王線で近かったということもあるか。
私とのつながりは、ほぼ、飲み会だけ。「先生そんなに精油がよのなか偽物だらけなら、どこの精油ならいいんですか?」 という質問もちょいちょいあったそうで、そんななか、無名も無名、うちの名前をいってくれていたそうです。そのことに関して、契約もお金のやりとりもありません。私は、ビックネームにならんでAOFの名前をいわれることがすごくすごく居心地がわるくてやめてほしいなと思っていました。ただのカラオケ友達、のみともだちというポジションがここちよかったかな。今晩はなぜか林太郎先生を思い出したので書いてみました。
コメント
コメントを投稿